*  自分史 製造業系 ( 五十歳までのワシ。 鉄工所三十二年間の想ひ出 )  *   < kujila-books ホームへ帰る >

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第 3 章

おお懐かしの小松市よ  -  2 / 4


< 小松飛行場には雲雀が沢山居た >





ヒバリの卵を採りに行ったのだから季節は春、
五月頃に違いない。

太陽は夏みたいにギラギラでワシら麦わら帽子にランニングシャツだった。
背の高い雑草がボウボウでよぉ 〜 、今の小松飛行場とは、
偉い違いだ。別世界に成っちまったよ。

今の君らには想像も出来ない風景だったのだ。
雑草がぼうぼうでウサギまで跳ねてたのだよ。
昔の小松飛行場はッ



*     *     *





< 石川県小松飛行場の今昔 >


前章の和田伝四郎小伝を書いて、ワシも勉強した。 飛行場は最初、開拓地、
食糧増産の畑だったのだ。

そこを 竹下勇海軍大将が視察して、飛行場。 昭和18年 ( 1943年 )
の事である。



畑のど真ん中へ、舞鶴鎮守府の 小松飛行場建設事務所が、出現した。

学徒や報国会の方々、近郷在住の人々、金沢工兵隊の兵士、さらには刑
務所の囚人まで動員した、突貫工事だったそうな。



完成は昭和十九年( 1944年 )の夏だから、敗戦の一年前だ。 当時の金
で一億円( 現在なら百億円以上 )と延べ二十万名の労力が投入された。

千三百メートルの十文字滑走路。 海軍攻撃隊、二ヶ隊が常駐となった。
すでに大戦末期。 米軍の侵攻で、沖縄が激戦の頃。



昭和二十年( 1945年 )三月、海軍神雷特攻隊基地と成り、毎夜零時きっ
かりに、二機三機と沖縄に向け、飛び立って行ったそうな。

ワシ、小松には五十年住んだが、小松飛行場が特攻基地だったなんて、
和田伝四郎伝を読むまで知らなかった。



  *       *       *



あれは確か、十歳である。 すると昭和三十年。 近所の仲間と二人。
ゴム草履( ぞうり )に半ズボン、上はランニングシャツ一枚。

とにかく暑い日だった。 小松の市街地から飛行場まで五キロある。 お
しゃべりしながらブラブラ行くと、小松飛行場。


別に進入禁止の柵が有るわけでも無し。 今は干拓して水田になってる
今江潟( いまえがた )のふちの農道を通り、我らは飛行場に入った。

当時、あの辺は半砂漠みたいで、砂地に背の高い葦( あし )が、まばら
に立ってるだけだったが、


見れば彼方に、パラソルが立っている。 椅子には居眠りしてる黒人兵が座っ
てた。 だけど彼の膝には、本物のカービン銃が乗っていたぞ。

ワシら砂地に腹ばいに成り、匍匐( ほふく )で突破したもんだ。 別段の
感慨も残って無いが、暢気と言えば暢気だった。



  *       *       *



朝鮮戦争の頃は、流石にとげとげしかったそうだが、その頃は進駐軍も、ボーッ
としてたんでは、なかろうか?

飛行場の中、手入れが悪いと言うか、雑草がボウボウで、ヒバリがうじゃうじゃ
居て、ピィーチク・パァーチク。 かしましかった。



真っ直ぐ前方へ歩いたものだから、滑走路にぶつかった。 傍に立って見て
たら、双発のプロペラ機が降りて来てね。

仲間と二人。 鼻くそなんか、ほじりつつ。 ぼお 〜 ッと立って見てると、
双発の飛行機君、我らの前を通過したんだが、


パイロットのアメリカ人だよ。 窓から我らを見て、おりゃりゃ
と、大袈裟に驚いてたよ。

あのパイロットの面を、ワシは、五十年後の今も記憶しとる。 それで、
どう成ったか?  と言うと、別に何も起こらなかった。



サイレンが鳴り、警備隊のジープでも、すっ飛んで来るかと思いきや。
何も起こらなかった。

ワシら、その辺を歩き回り、ヒバリの巣から卵をポケットに入れ。 コン
クリ製の防空壕でチョイ、ひと息付いたりしたもんだ。



その防空壕だけど、飛行機用なんだが、やに小さいのだよ。 翼の部分の
巾が、たった八メートルなんだよ。

奥行きだって、五メートル足らず。 一体全体、どんな飛行機が入って
いたのかと、子供ながら、いぶかしく思った。



そんなのが、あちこち、五つばかし残っててナ。 練習機でも入れたんだ
ろうか? 今だに良く判らねえ。

それから、どこをどう通って帰宅したのか? 定かでは無いが、とにかく
これが、ワシらの、小松飛行場探検記なのだ。



  *       *       *



次の年だ。 小松市の婦人会の団体で、小松飛行場の進駐軍の生活を見学
しようと言う企画が起きたんよ。

母も、ワシをお供にして見に行った。 オバハンばかし、百名の団体だった。
子供はワシの他( ほか )、五 〜 六名だったかな。


入り口でバスを降りて基地の中に入るとだな。 取っ付きの芝生に、パンツ
一枚の白人の若者が、大の字で寝そべってた。 日光浴なんでしょうが、

オバハン連中は、見て見ぬ振りで通り過ぎた。 当時の世の中、若い男女
が肩を並べて歩いてると、ワシら子供達。



やぁ 〜 い、男と女がくっ付いとらぁ 〜 



って囃( はやし )立てて、驚くなかれ、小石を投げてた時代だからね。
映画のスクリーンで、キスをしたとか、しないとか。

それだけで大騒ぎしてた頃なんだ。 今じゃあ、うっかり電車の座席で、
新聞雑誌を拡げたりすると、おんなの裸体が出たりして、



思わず、おへっ  と成るが、当時はもっともっと純だったの
だ。

そんな時代に、のっけからパンツ一枚の若者の日向ぼっこだから、オバハン
連中。 顔を背けたのだよ。



  *       *       *



アメリカ軍将校家族の住宅は、平屋建だったけど、大きかった。 中を見
せて呉れた。

居間と台所は、広々としてナ。 最近じゃ珍しくも無いが、巨大な冷蔵庫
に驚嘆した。 ちゃんと電気の冷蔵庫だ。 日本のは氷の冷蔵庫だった。



日本人のメイド、まるで自慢するみたいに、冷蔵庫の扉を開くのさ。 中
にゃあ、牛の腿( もも )肉、でかい塊のまま、入ってるのさ。

見学のオバハン連中。 期せずして、マァァ 〜 スゴイッ
感嘆のため息さ。



あんなの食べてりゃ、大きく成りますよ。 ワシも肉の塊にはビックリし
たが、そのビックリ。 チョイ、注釈が要る。

と言うのはだ。 その腿肉の塊。 誰が納品したか、知ってたからだ。
小松駅前大通り、ワシの家もそこなんだが、


同じ並びに肉屋が在った。 そこ在日韓国人の経営。 ワシの一年上に女
の子。 一年下には男の子。

ずっと上にも、男の子が二人居てな。 夫婦と四人のお子さんの肉屋だった。
敗戦後、小松飛行場がアメリカ進駐軍に接収され、飛行場関連の米兵、


多数そこに来た。 当然、衣食住の要求が生ず。 彼ら肉食だろ。 食肉の
需要、その日から発生だ。

その時、日本人の食肉業者、米軍キャンプに入れないのだ。 韓国・朝鮮系
食肉業者の独占である。



  *       *       *



ワシの近所の肉屋さん。 たちまち大資産家に成って行った。 そんなのを
間近に見てるから、韓国・朝鮮人の、差別されてるの発言、

不思議でならない。 差別されたのは、むしろ、こっちの方だゾッ
と言いたい思い、ワシに有るのだ。



近所の韓国人の肉屋さん、子供にも判る勢いで、巨富を積み行くのを、ワシ
らは、この目で目撃したものだから、

韓国・朝鮮人の被差別発言を、サッパ、判りかねる。 差別されてたのは
こっちの方だよ。




在日は進駐軍との商売を独占して、日本人を叩き出していた。 日本人に
は、出入りさせなかった。

だけど在日韓国・朝鮮人の間にも反目が有ってナ。 ワシの同級には在日の
二世が多かったか性も有るが、

成功して資産家に成って行く同胞の足を、悪口こいて、引っ張るのだ。
あいつ等、祖国では、こんな身分の連中だ。



なんて言うのだが、子供のワシ。 韓国人の身分に係わる悪口には、いまいち
理解が届かなかった。 韓国・朝鮮は、恐るべき身分差別の国と知ったのは

最近じゃよ。



  *       *       *



さて成功した、その肉屋の娘さん、なかなかに優秀でナ。 評判だった。
我ら、近所の子供達の輝く 星だった記憶がある。

それと、テレビを見せて貰った記憶が、残る。 近所の子供達、沢山押し
かけても、五月蝿い顔もせず、ありがとさん、でした。



昭和三十年代の初め頃。 国産テレビの出始めた頃だ。 当時のナショナ
ルはパナソニックで、今も有名たけど、ヤオー( 八欧 )電気なんて、

聞いた事も無いだろう。

バイクメーカーが、二百社もあったんだぜ。 今はホンダとヤマハと川崎
だけに成ってるが、テレビメーカーも多かったのだ。



大相撲なんか有る時は、ワシら子供たち、この成功した韓国人の肉屋さんの
居間へ押し掛けて、

若乃花と栃錦の横綱対決に、大声援を送ってたもんだよ。 この若乃花は、
初代の若乃花だぜ。 息子の若乃花・貴乃花の若乃花じゃ無い。



土俵の鬼なんて言う、映画まで有ったのだよ。 手に汗握る、大熱戦が繰り
広げられてたものだったよ。

それをワシら、この成功した韓国人の肉屋さんの居間で見てたのだ。 ワシ
ら日本人、貧乏だったから、テレビ買えなかったのさ。



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在日は差別されているって主張、盛んですけど、調べて見ると笑えて仕舞う。
日本の敗戦直後は、在日の方々。 自分達を戦勝国民として扱え。

われ等は、日本人と違うと、それはそれは大変でした。 わし等は、お前ら
敗戦国民とは違うと、声高に叫ばれていたのに、

1980年代に成ると、日本人と日本社会は我々を差別してると、主張を
逆にされて仕舞った。




日本人、その辺の歴史、全く 学ばないので、在日韓国・朝鮮人の差別され
てるの叫びに当惑するだけ、なれど、

きちんと歴史的推移を見れば、在日の方々。 随分とお好きな事、言って
おられますなと、嫌味のひとつも言いたく 成るのです。



  *       *       *



ま、その辺の処は、くじらの投資・韓国経済の研究の中で見ましょう。
最近の( 2010年代の )韓国経済の世界的伸張。

1997年からのアジア通貨危機に事寄せて、アメリカ金融資本に買収されて
しまった韓国の経済の、アメリカ指導の世界伸張だという事。

押えて置かねば、なりまッせん。




これ、元寇ならぬ、アメ寇です。 アメリカ金融資本の最終ターゲットは
日本です。

日本経済の目の上に、たんこぶを作るのが目的の、韓国伸張です。 韓国は、
今や、アメリカ金融資本の 植民地 に成ってます。




韓国の皆さん。 在日韓国人の皆さん。 反日にうつつを抜かしてる間に、
国家経済を乗っ取られてしまったじゃ、ないですかッ

どうなさるお積りなんですか?




どうやって金融植民地の呪縛を
克服なさる、お積りですかッ?



もっとも我ら日本人、そんな事より、アメリカ金融資本の意図を先読みして、
上手く 対処しないと、日本は、やられてしまう。

韓国経済同様に、乗っ取られて仕舞うでしょう。 我ら日本人、本当は大変
な時代に直面してるのですが、例によって我ら、のほほんとしてますがね。



とにかく 韓国経済は、アメリカの意図に依り、活性化されてます。 そして
あらゆる角度から日本経済は、攻撃され、弱体化されるでしょう。

アメリカは明瞭に、韓国経済を使い、日本乗っ取りを企( たく ら )んで
るようです。



それがまた、反日思想をインプットされた韓国々民の気分に、ぴったし
なんですなあ 〜 。

だから、元寇の時の高麗( こうらい )軍のように。 ベトナム戦争時の
韓国軍のように、有能に働く ものと思われます。



ワシは、これを、元寇ならぬ
アメ寇 だと再三ながら、申し上げときます。



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問題は、アメリカ進駐軍住宅の風呂場だよ。 個人の住宅なのに、温泉
の湯船みたいに広いのだ。

あんなのに湯を一杯にしてたら、燃料代で破産しちゃう。 それと、お風呂
の、洗い場だ。



便器が有るのだな。 今の感覚で思うなよ。 当時の日本人だ。 風呂に
入りつつ便器が見えたんじゃあ、

風呂の気分、壊れちゃうよ。 ありゃあ、やっぱ、文化の違いだな。
世の中、そんなものだと思えりゃ、そんなものかも知れぬが、

便器眺めつつの風呂、やっぱ御免だな。



その他のアメリカ進駐軍の建物。 ダンスホール在り。 映画館は小さい
が、二十人で満員の大きさながら、赤いじゅうたんの立派な代物だった。

食堂やら売店やら、とにかく だ。 物資の豊富なのに驚嘆した。



物量に圧倒されて、ただただ感嘆のため息で、オバサン連中は帰って来た
んだが、

かっての日本軍も、あの物量に負けたんだから、感慨もひと塩だったよ。
とにかく 物が、やたらに多く て、大きく て、滅茶苦茶だったのよ。 

ワシ、子供ながら、当時のケチケチ生活、嫌に成って仕舞ったね。



  *       *       *



< 尾小屋銅山の跡地は今 大倉岳高原スキー場である。>


ワシらの子供時代。 尾小屋銅山は、まだ稼動してた。 精錬所も動いて
いた。

小学校で、見学に行った事さえあった。 精錬所の周りの山、いわゆる禿山。
樹木が亜硫酸ガスで、死んじまうのだな。



だから銅が掘り尽くされて廃鉱になって、小松市がここを市民のスキー場
にした時。

禿山だから、えらく簡単だと担当者が言ったかどうか? ワシゃあ、知ら
んがね。



樹が一本も無いんだもの、リフト付けりゃぁ、スキー場だもんな。 スキー
場に成ったのが、ワシらの高校時代。

当時、スキーに行く とだな。 一回券しか買わないのだ。 それで頂上へ
行く とだな。 そのまま昼まで、降りて来ない。



圧雪車なんて、まだ無いだろ。 ゲレンデには、先客が滑ってる。 その
コースの端を、スキーの巾で踏む。

こうして一行( いちぎょう )圧雪すると、仲間に入れて貰える。 いろ
んな連中が集まって来て、ようやく コースに成るのさ。



リフトなんか使わず、自力で登ってたから、コースの端に、上から下まで、
よっさよっさと登ってく る、その前を滑るのだ。

晴れの舞台に成るか。 大恥じを掻く 羽目と成るか。 なかなかの緊張だっ
たよ。



コースったって、多寡が三十メートルたらず。 ターンの 二 〜 三回で
お仕舞いのゲレンデ。

当時、それが、楽しく て楽しく て堪らなかったのだ。 最近のスキーみた
いに、二キロから 三キロのコースを、ビュンビュン飛ばす滑り方。



昔は無かったよ。 だからリフトなんか、乗らねえ。 最初の一回券で、
山頂まで行って、午前中、お仕舞い。

午後また、一回券買って、それで一日の終りだ。




これじゃスキー場、儲からなく て破産するよ。 だけど当時のワシらの
スキーは、そんなだったのだ。

今時の若い連中に話すと、笑われるけど。



  *       *       *



夏、リックを背負い、この銅山跡、大倉岳スキー場山を登る。 登山道から
ちょっと外れた辺りに、

鉱脈の端っ子が、露出してんのよ。 水晶をちりばめた、銅の鉱脈が、顔を
出してるんよ。



初めて、あれを発見の方。 胸がドキドキだったろうな。 山師、言うてな。
地下資源を求めて山を歩く人が、居る。

ワシ、お話を聞いた事、有る。 岐阜県の北部、富山県に近い辺り、神岡鉱
山を知ってるかい?



あの辺の山村の人なんだ。 ワシが聞いたのは、その弟さんから。 兄貴、
田んぼが終り、冬に成ると、米と味噌を担ぎ、犬を連れて山に入る。

手に持つハンマーで岩を穿( うが )ちつつ、鉱脈を訪ね歩く。 砂金など
採って来るそうな。



この山師。 一回始めると病み付きに成り、ほとんど病気なんだそうだ。
雪が降り出すと、じっと出来ない。

米と味噌を持ち、飼い犬を連れて出掛けない限り、居ても立っても居れない。
こんな亭主を持った嫁さん。 一生、大苦労するそうな。 なるほどね。



  *       *       *



ワシ、四十年前だったが、尾小屋鉱山で働いてた方にも、話を聞いた。 銅
とか金の鉱山は、石炭の鉱山ほど危険では無いそうだ。

硬い岩盤の中を、鉱脈が走っておる。 落盤事故は少ない。 とは言いつつ
も、天井の岩が落ちて、九死に一生を得た話しを話された。



地下数百メートルから、数千メートルの作業だ。 地上しか知らない我ら、
別世界の感覚の支配する職場だな。

戦後六十年。 日本に残る鉱山は、九州に在る住友金属鉱山の菱刈金鉱山
だけに成って仕舞った。



かって、あれ程多くの金や銅を産出した日本。 地下資源はまだまだ、残さ
れている。

貴重な鉱物資源。 新しい技術で採掘される日が、来るのだろうか?
尾小屋銅鉱山の在った大倉岳。 休日のハイキングコース。


地上に露出した鉱脈に、胸を、ときめかせるのも悪く ない。



  *       *       *



その尾小屋銅鉱山から小松駅まで、トロッコ電車よりマシだったが、軌道が
敷かれてたのだ。

初期は保存しておきたかった様な、小型の蒸気機関車。 ワシらの頃は、ヂ
ィーゼルで走る気動車。



小松駅のホームに立つと、向うに見えた。 知らない人、あれ、遊園地へ
行く汽車ポッポですか? ・ ・ ・ に笑ったね。

そんな感じの鉄道だった。 ワシが小松高校の頃。 同級生に山住みが
居てナ。 その尾小屋鉄道で通学してた。



今朝だよ。 通勤通学で満員だろ。 花坂の坂を登らねえんだ。 バックし
てな。 勢い付けて、ヤッとばかりに登り、どうにか、こぎ抜けて来たよ。

お陰で遅刻して仕舞ったに、ワシら、ハッハッハッと笑ったね。 こんな
マンガみたい鉄道が、小松市に有ったのだ。



花坂言うのは村の名前でな。 諸君らが国道八号線で、小松市を通過すると、
その辺の山が、花坂だ。

昔はキジや猪( いのしし )のうろつく 山奥だったんだが、最近じゃあ
小松市の郊外に成って仕舞った。



東京の連中が、川端康成の雪国で有名な湯沢スキー場を、日帰りする時代だ
もんなぁ 〜 。

便利に成ったものだよ。 渋滞さえ無ければ、極楽なんだが ・ ・ ・
先日も引っ掛かってナ。 小便が我慢出来なく て、死ぬかと思った。



  *       *       *



関東地方の渋滞。 揚子江の流れの様に、ゆっく りと流れて止まらない。
あれに困るのだ。

同じ渋滞でも、北陸の渋滞は止まってる渋滞だ。 止まってるから車から
出れる。



その辺の道端で用を足して来りゃあ良い。 関東地方のは動いてる。
ゆっくりだけど流れてる。

だから車を離れられない。 初期の飛行機乗りみたい、服の中で用を足して
やろうか? とも考えたが、そこまでの覚悟はつかず、我慢したね。



サービスエリヤへエスケープする道が、これまた渋滞でナ。 失神の寸前だっ
たよ。

平安時代の貴族は、衣冠束帯のまま、おしっこしたそうな。 十二単のお姫様
だって、いちいち脱いで糞した訳でも無いだろ。



道具が有ったんだよ。 あんな道具、作って呉れよ。 ホースか何か、差し込
んでよ。

そこへジョンジョンするんだ。 気持ち良いと思うよ。 運転手が女性だと、
道具は別に成るだろうけど。



最近の居住性の良い車、便座を用意してるからね。 トイレと水筒とコンビニ
のおにぎり。 これが、

渋滞対策の基本だからね。 運転席がスイッチ一つで便器に変わるのは、まだ
無いみたい。



歯科医師やってるとさぁ 〜 。 千五百万以上の車に、しょっちゅう出会うの
さ。

何時も聞く んだけど、その手の車。 まだ出てないみたい。 質問すると笑わ
れる ・ ・ ・



トイレと言えば列車のトイレ、線路へ放出だぜ。 線路を歩くの、考え物な
のだ。

飛行機も、ストレートに空中散布だしな。 航空路の下に住んでる方。 飛
行機からの糞便の散布に、曝( さら )されてるのだ。

あんま、飛行機を見上げない様にしよう。 顔に、おしっこ引っ掛けられて
るぜ。



  *       *       *



尾小屋の銅鉱山は、掘り尽く された。 小松に近い遊泉寺の金鉱山も、掘り
尽く された。

鉱山は終って仕舞ったが、その鉱山機械の修理・製作所だった小松製作所は
和田伝四郎小松市長の呼んで来た、河合良成の手腕にて、

世界のコマツへと発展した。



遊泉寺の金鉱山には、かって二千名の従業員が働いて居たそうな。 仏大寺
なる山村から、観音山への山道をたどれば、

往時の貯水池や鉱山監督者の住居跡が、残っとる。 山に入れば坑口や
煙突跡が残ってるから、


落ちたが最後、上がって来れないと嚇( おど )されたものだ。 精錬所
跡の山は、禿山と言われ、

小松の市街地からも、樹の生えぬ黄色の斜面が見えたものだった。 最近は
植林のかい有りて、緑が戻ってる。



  *       *       *



小松製作所の創業者は、竹内明太郎と言う土佐出身の人士である。 吉田
茂総理らの血脈に連なる方である。

早稲田大学の理工学部へ多大なる寄付をされているが、知られていない。
この竹内氏、常に言ったそうな。



鉱山は、掘り尽く せばお仕舞い。 製作所は、無限の可能性を秘める。

その遺志が、河合良成の手で実現したと言える。 小松市は コマツの
お陰で、世界に知られる都市とは成れた。



かく 言うワシも、コマツの仕事でメシを喰い、コマツの仕事で鍛えられた。
産業は、企業は、ある意味、神よりも慈悲深いと言える。

小松市が、こんなに豊かに居れるのも、コマツが有ればこそである。
共産国の衰退の原因は、この様に優秀な企業を、創れなかった事に有る。



本田宗一郎なんか、北朝鮮に生まれていれば、絶対に収容所行きだ。 あん
な滅茶苦茶な人。 共産国では、生きてらんない。

だから共産国には ホンダ技研が無い。 ソニーも無いし、パナソニックも
無い。 ついでにキャノンも無いし、京セラだって無い。



この辺が、共産主義学者先生の課題なんであるが、克服の道を得る前に
肝心の国家が、潰れて仕舞った。

やはり何か、人間の自由な発想を許容しない物が、共産主義には有るのだ。
ワシなんかも、言いたい事をズケズケ言ってるので、

北朝鮮に居たが最後、今頃は収容所へ送られてるね。 間違い無く。



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さて次段では 元北陸電力副社長だった 古田暉彦氏の少年時代を
眺める。

氏は、本物のガキ大将だったのだ。 漫画のじゃ無いぞ。


我ら、日本の絶滅危惧種の、トンボやイヌワシやトゲウオばかり
見てても駄目だ。

もっと深刻に考えるべきは、子供( だけ )の世界の消滅と、そこに
生息してた、ガキ大将の絶滅だ。



ガキ大将の絶滅は、日本のあり方さえ変えるのに、切迫感が薄い。
それはともかく、古田暉彦氏は、その絶滅危惧種の最後の

生き残り( の一人 )と言える。



古田氏の少年時代を眺むるは、無駄で無いと思う。
では次段にて ・ ・ ・






*       *       *



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