*  自分史 製造業系 ( 五十歳までのワシ。 鉄工所三十二年間の想ひ出 )  *   < kujila-books ホームへ帰る >

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第 4 章  *  ワシの同級生賛歌

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< 故 清水道明君を悼む >





中三のクラスメイトから、二人逝った。
中学時代の全同級生では 清水君ともう一人、
黒田外喜広君が、物故した。

清水君とは少年野球で。黒田君とはクラブで、
しょっちゅう会った。
名簿をたどるれば物故者は、他にも居る。
心配すんな、ワシも直ぐ に行く から。



*     *     *





< 黒田外喜広君は、四十三歳で逝った。 >


黒田君の死は、クラス会で聞いた。 彼は中学時代、水泳クラブで鳴らし
とった。

ワシは剣道クラブだったから、クラブは別だが、体育館の横がプール
だろ。



良く 彼と出会った。 黒田君、男前でね。 水泳で鍛え抜いてる、肉体美
だろ。

ありゃ( 女の子に )持てるねって、言っとったのだ。 ワシャ、その
反対に持て無い方だったから、ニャロメッ  だったがね。

そうか、あいつは死んだのかと言う、ぼんやりした記憶が残ってる。




小松高校時代の同級生が、同窓会誌に文を寄せておる。 なんでも黒田君、
東京都は、狛江( こまえ )市に住み、小学校の教師をしてたそうだ。

奥さんと、三人の娘を残しての旅立ちとある。



なにしろ四十三歳だろ。 経験と体力の、一番充実する頃である。 こりゃ
未練が残るかも。

人生、これからの年齢である。 発病して、東京は虎ノ門病院にて手術。



元気を取り戻したかに見えながら、再発転移。 帰らぬ人とは成った。
葬式の日、教え子の子供達、

先生、先生と、身も世も無しに嘆き悲しむものだから、貰い泣きしち
まったそうな。



  *       *       *



報告者は、たまたま黒田君の近所に開業した、歯科医師さん。 発病から
死までを、報告しておる。

我らの年齢に成れば、会って話す事。 あいつが死んだ、手術をした。 なん
て話題ばかりだ。



だけど、四十三歳は早過ぎる。 残された家族、バットで、ぶん殴られたよう
な ショックを受ける。

人生、何事に依らず、その時が有ってな。 その時に当たれば、そんなもの、
なんじゃが。



しかるべき年齢を外るれば、心痛む、人生のトラウマに成りかねぬ。 だが、
何としてもダメージを修復し、進まねばならぬ。

ここを書いてるのは、平成二十三年の四月だ。 一ヶ月前の、あの2011年
3月11日の、東日本大震災の直後だ。



入力の場所は埼玉県だから、ワシも、あの大地震の、長い長い揺れを体験した。
襲い来た津波の映像は、

繰り返し繰り返し、インターネットで観た。 あの映像には無数の死が込めら
れておる。



戦争のように、大災害のように、死が、周囲に溢れておる時の死は、案外
許容出来る。

周りが幸せで、平穏な中での死は、体験者に、深刻に作用する。



現代は、国民の半分近く が、幼児期の被過保護者である。 人生の最初
の数年間に過保護された人間は、この手のダメージに弱い。

ダメージは、人を強く もするが、弱らせもする。 その差は、我らの
それまでの生き方を、炙( あぶ )り出す。



  *       *       *



ひとつだけ、確実に言える事。 周囲の同情が、有ろうと無かろうと、
自分の足で歩き出す以外、どんな道も無いって事だ。

さすれば、立ち上がり、前へ進む以外、無い。 支援は、そんな人にこそ
効果を加速する。



進( すす )もうと、へたばろうと、どっちをしようが、我ら、やがて
死ぬ日が来て仕舞う。

その日までは生きるしか手は無い。 だったら本日只今、この瞬間より、
ちょっとで良いから、マシな生き方にして見よう。



月日の立つの、早いぞ。 黒田君が死んで、早( はや )二十年だ。
小学六年生だった一番下の娘さん、

数えてみれば、三十二歳だぜ。 あの可愛いかったオケツも、垂れ始め
る頃やんけ



東北大震災で死なれた方々も、生きて残された方々も、三年は夢の内だ。
五年は矢の様に過ぎ、十年、二十年、五十年昔の話に、なっちまうのだ。

ボヤボヤ出来るかってんだ




ワシもジジイなんで、スーパーで買い物する時、なるべく 東北産の食品を
買う位いしか、支援らしきもの、出来はせんが、

じじいは、じじいなりに、生きてく つもりだ。 それしか、有んめえが
( 無いでしょうに。 )



***********************************************************************



< 故 清水道明君を、悼む。>


清水君とこは、男ばかしの三人兄弟だった。 一番下、学校の教師。 上
の二人、家業の清水商店を継いだ。

清水商店と言えば、小松の老舗( しにせ )である。 市街地に広大な
る地所を有し、木造建築と、そこに使う木材や銘木など、扱ってた。



あのバブルの時代には、事業の手を何倍にも広げ、隆盛( りゅうせい )を
誇ってた。

バブル崩壊のダメージを深刻に受け、遂に倒産して仕舞ったが、資産が多
かったから死に体に成れど、なかなかに破綻しない。



長く 苦しい倒産への道。 この心労が、清水君を殺したと思う。 過度の
飲酒のうわさ、ワシの耳にまで届いてた。

最後死因は、肺ガンだったそうな。



小松高校の同窓会誌には、体調を整えて、次の会合にはきっと出ると言う、
彼の短文が、目に痛い。

あともう少しで還暦の頃、清水君は逝った。



***********************************************************************



清水商店の嚆矢は、清水君の祖母である。 その方、大正の末から、昭和
の始め。 材木の投機にて、極めて短期に、巨富を築いた。

息子の代に資産を確定。 その孫、すなわち清水道明君は、小松屈指の
資産家の三代目の御曹司として誕生し、ご成長なされたのである。



ワシ、ある時、不動産屋で、土本寛二君のお父さんに聞いた事ある。
清水商店の資産は、どれ位でしょうか? ・ ・ ・ と、

お父さんいわく、そんなもの即座には言えぬ。 あそこは、色んな意味
の、評価し難い資産が、やたらに多い。



たとえば油絵だ。 日本と西洋の名画、たたみ二畳くらいもの。 百枚か
二百枚、持ってんじゃないのか?

一枚、百万だッ て言えば、百万だし。 一千万すると言えば、一千万だ。
床の間に使う銘木なら、商売ものだから、倉庫に何杯も持っている。



あれだって一本、十万とも言えるし、八十万だって言えば、そうも言える。
清水んちは、そんな具合に、値段の付けられないものが、沢山有る。

だから、一概に、どれだけの資産かっ?  って聞かれても、返事出来ん。
じゃがだ、物凄く沢山ある事だけは確かだナ。  と言うて、

ワハハッと大笑された記憶が有る。




そのあとマジに成られ、現金と株だけでも、最低、これ位あるだろと、
指を広げた手を出されて、ワシに示された。

その太い指の残像、眼底に残る。

地元、北國銀行の株なら、土本君のお父さんと肩を並べ、個人の大株主に
名を連ねておった。



  *       *       *



清水道明君は、円満なる人格の男( おのこ )では、あった。 少年時代
から、角の無い、良い意味で、良家のお坊ちゃまだった。

勉学もスポーツも、性格と同じく、品の良い成績だった。 大学は確か、
阪大( 大阪大学 )の商学部だったかな?

少年時代の清水君の印象は、その程度で、悪い想い出が、ひとつも無い。



  *       *       *



ところが社会人に成ってから、ワシは清水君と、再三再四、出会ってる
のだ。

運命はワシに、何を教えようとしたのだろう?



清水君、三十歳に成るや成らぬやで、子供の通う芦城小学校の、父兄会の、
代表に選出されている。 市報に、顔写真が載っていた。

老舗、清水商店の重役。 温厚にしてバランスの取れた風貌で、清水君は、
どこへ行っても、どんな集まりに参加しても、真ん中の席が用意された。



そんな場で、うっかり別の人が選ばれたりすると、選ばれた方、徹底的に
辞退して、清水君と交代するのだった。

清水君、単に、資産が有るだけでは無い。 そう言う人望をも、備えてたの
である。

清水君が、そう言う方であるならば、先見の明ある人が少し介入して、
清水商店を倒産させる必要など、無かったのである。



  *       *       *



あれはワシが、三十代の後半だったと記憶する。 どこで、誰に聞いたのか?
一人のご婦人、ワシの工場に来られた。

うちの息子、中学で悪い仲間に、お金を毟( むしられ )てます。 助けて
下さい。



お母さん、そりゃお門違いでっせ。 ワシに、そんな問題をぶつけられても、
困ります。 ワシは、そう言うたんだが、

いろいろ聞いて後、当時市役所の、市民相談室の相談員してた清水道明君を
紹介し、そこへ行くように言った。



一体誰が、ワシのとこへ行けと言うたんじゃろと、いぶかしく 思いつつ、
歩き去る ご婦人の後姿、見てた記憶がある。

一週間して、その方、また来られた。



清水さんは本当に親切で、良く聞いて下さいます。 でも何もして呉れま
せん。 それ聞いてワシ、あたま掻いた ・ ・ ・ 弱ったナ。

当時、健康の為、空手道場へ通( かよ )ってた。 どうやら、そこで紹
介されたらしい。



  *       *       *



でもね、ワシの空手なんざ、週一回、一時間だよ。 皆様には、はっきり
と、空手ダンス習ってます、言うてました。

それともワシの、お節介を見込んでの頼みであるか? ホンマに弱ったぞ。



とうとう、止せば良いのにワシ、よっしゃ、そのいじめっ子の家へ、行っ
てやらあ   と、

言って仕舞ったのだ。 入力の方、豚も煽( おだて )りゃ木に登る、
ですね。 と、のたもうから、ワシ思わず、

アホッ  と言って仕舞った。



  *       *       *



だけど、どうなるか判らん。 そのいじめっ子、ゴツイ体格の坊やだそう
だ。 

三十面( ズラ )のおっさんが、中二のガキに負けたら、恥じだしなあ。
安請け合いがワシの、弱点ではある。 など、後悔しつつ、



おっかなビックリで、いじめっ子の家の玄関に入ったのだ。 空手衣着てナ。
胸のところ、猛者的に開いてだ。

胸毛あると良かったんだが、アバラ骨が、浮いてちゃねええ 〜 。
黒帯は先生( 飯田他家志先生 )の借り物だった。

当時も今も、ワシ、茶帯。




口をへの字に、なるべく 強そうなツラにして、行ったのさ。 今から思
うと、空手衣なんか必要ない。 こけおどしだった。

玄関で、たのもお 〜 と叫ぶと、お母さん出て来た。 たちまちすごい押し
問答に成った。





うちの子、そんな事、してませんッ



ワリャア、何をつべこべ抜かすねんッ とワシ。 東映の映画、
菅原文太調で言うたんだが、我ながら、迫力無かったなああ ・ ・ ・

その子、お母さんに呼ばれて出て来てナ。 また大声のやり合い少し。
とにかく お金の要求は、止めてく れ  ・ ・ ・ 言うて、

( なんとか無事に怪我もせず )帰って来た。



  *       *       *



いじめ、どこでも同じだ。 いじめられる奴。 いつも体力が劣勢。 い
じめる側、必ず優勢の体力と腕力。

ワシ、そんな時、決まって言うのだ。 オメ ェ 〜 ら、一度でいいから
極真館の 真樹日佐夫か 盧山初雄を、いじめてみろッ ってナ。

一ヵ月後、またまたお母さん、お見えになった。 お礼を言って帰られた。



その十五年後だ。 ワシ五十歳、鉄工所を止めて大学の歯学部。 さて、
あの時の少年達。

どうなってるだろ? 彼らはもう三十歳だ。 ちょっくら見て来るべえ。
ってんで行くと、だな。



いじめてた男の子、金沢近郊に家を建てて、子供二人。 善良なる市民、
してたよ。

片や、お小使い巻き上げられ、いじめられてた男の子、行方不明。 ワシ
の所へ来たお母さん、昔のままのアパート暮し。



十五歳だけ老けておられた。 ワシのツラ、ご覧になられて、あらかさま
に不愉快な表情。

お宅さんとはもう、関係ありませんッ  手厳( きび )しい
お叱りを頂戴した。



近所の方に聞けば、一緒に住んでるんじゃないのですか? 時々外に出
て来ますよ。 暗くなってから。

って言う事は、引き篭( こ )もりでも、してんのか? ・ ・ ・
世の中、こんなのが多い。



  *       *       *



清水君との次の関係は、数年後だった。 ワシ、ちょい、境界線で近所と
もめた。

相手方の新築した家、境界線のコンクリート壁。 十センチばかり、町内
所有の農道を、齧( かじ )ってた。



これは現在も、そのままだから、指摘( してき )出来る。 だけどさ、
所有者のあいまいな、ため池など、

勝手に埋め立てて自分の敷地に取り込んだりするの、けっこう多いらしい。



トラブルの原因は別にあって、そこから売り言葉に買い言葉。 テメーは、
こんな事もしてるぞ、と言う、争論の拡大だったのである。

ワシ、このトラブルを、小松市役所へ持ち込んだ。 受け付けた女性職員、
市民相談室の 清水君に委( ゆだ )ねた。



  *       *       *



清水君、何時まで経っても、反応なし。 問い合わせれば、席を外して
ます、ばかり。  逃げ回っとるんか?

ワシ、諦めて、その件を取り下げた。 結局この件は、自力で始末するよ
り、仕方無かった。



この辺が 清水道明君なんである。 責任有る椅子に座っていながら、
その責任が生ずると、消えてしまう。

今の日本、この手の立派な方が、多過ぎる。 ワシのこのホームページの
あちこちに、この手の方が登場す。

責任を取れない症候群である。 良いワクチンでも有りませんか?



***********************************************************************



清水君とこは、木造の建築である。 家と言うもの、トラブルが多い。
仕事で知り合いの方、清水君とこに頼んで、家を新築した。

三年後だった、雨漏りが酷くなり、家の中、水浸し。 原因は簡単だった。



屋根のかわら、原価の安い愛知県の三州( さんしゅう )がわらを使った
から。

北陸は雪が降る。 雪の重さで 瓦にひびが入り割れて仕舞う。 問題は、
北陸瓦( かわら )への吹き替え費用。 どっちが負担するかだ。



結局、裁判に持ち込まれた。 しかし裁判には成らなかった。 なぜか?
言い争いの段階では 清水君側、責任は無いの一点張り。

ワシの知り合い、腹を立て、裁判所に訴えた。 すると突然、和解したい
に変わり、結局、費用の半分は弁済するで、示談成立。



問題は、この争いだった。 清水君側で対応したのは、初めから終りまで、
大工の棟梁、ひとりだった。

清水君は横に居ながら、何してたの?




ひとの良い笑いを浮かべてただけ。 何か言いましたか?  いいや、
一言も発言しなかった。 終始無言だった。

じゃ何の為に、清水君はそこに居たのですか?  そんな事、私に聞いて
も、判りませんよ。

ここでも責任問題に弱い 清水道明君だった。



***********************************************************************



ワシら、男の厄年( やく どし )の歳、小松の日吉神社へ、記念の石垣
を奉納すると決まった。

芦城中学の同級生の代表、いつもながらに清水君。 この年は芦城小学
校の創立百周年でもあった。 そっちにも寄付しようと成った。



ワシも、ささやかながら、参加させて頂いた。 その半年後だったかな?
清水君が仕事場へ、電話して来た。

日吉神社への奉納、芦城小学校への寄付、いずれも滞( とどこう )り
無く 済みました。 ご報告まで ・ ・ ・ との事。



それから暫く、電話で歓談した。 この時ワシ、清水君に、余計を申した。
しかしそれは、今から見て、余計では無かった。

ワシ、清水君に、事業の拡大は、別会社でしたらどうか? と、提言した。



君は清水商店だけの社長を務める。 新規の事業は、弟の正明君を社長に、
そっちの会社でやらせては、どうか?  と申したのだ。

当時は、バブルの頂点の頃であった。 清水君は絶大なる収入が、雪崩込
んでた最中だった。



そんな情勢下では、耳に入り難い提言ではあった。

もし、あの時点で、彼が対応していれば、たとえ倒産しても、新規に拡大
した部分が無くなるだけで、本体の清水商店、今も健在である。



さすれば清水君、小松の名家の三代目として、今も生きてたと思う。
ちなみに清水君のご両親は、健在である。

ワシが清水君を悼む時の悼み方は、この意味で、である。



あのバブルの崩壊が、清水君を会社ごと、根こそぎ押し流したのだ。
ご冥福を祈りたい。



  *       *       *



最後に、いやみ。 あの親密だった清水君の仲間達。 親友の没落を何故に、
何故に傍観してたのか? あれは救えたのである。

友達がいが無いとは、この事である。 君らは結構なもてなしを受けたのだ。
君らの責任も確認したい。



***********************************************************************



清水道明君の弟は、正明君なんだが、正明と道明の名。 姓名判断では
どちらも長男と出る。

いやむしろ正明が長男で、道明は次男なら、ぴっちりと納( おさ )まる。

ここが、清水商店の問題なのだ。 弟の正明君、副社長、専務の気楽さで、
行け行けドンドンに成り易い。



社長の道明君、大資産家のお坊ちゃまらしく、抑制が利かない。
弟の暴走の制御に、未練を残したとワシは見る。

ある婦人会の顔役の方いわく。 手を拡げ過ぎですよ。 調子の良い時代、
そんなに長く、つづきませんよッ

感想、これに集約されるか?



  *       *       *



ワシ、清水君を見ると、四十五歳までは、お花畑で愉楽の極限までを見た
幸運児。

五十歳頃から死までは、それまでに棚上してた艱難辛苦。 一挙に全部
頭上に落下したよな人生 ・ ・ ・



実は、かく 言うワシも、小規模ながら、逆の意味で、似たよな人生なん
よ。 五十歳までのワシ、遊びの存在しない、仕事人生。

仕事仕事仕事で、休日が年に五回以下の歳月。 お正月の正午から仕事を
始め。 大晦日、N H K 紅白歌合戦のテーマ音楽が流れるまで、



朝の六時から、夜の十時 〜 十一時まで、仕事仕事仕事の生活だった。
五月の連休も、お盆の休みも、秋の連休も、関係、無かった。

余りにも仕事仕事仕事だったので、四十七歳だったかな? 止めたッ
ちゅうて( 言うて )、仕事、放擲したよ。

こんな人生も、如何かと思う。



清水君の人生と比較して、然( さ )したる相違、見出せぬのだ。
どっちも良くない人生だ。



  *       *       *



清水道明君は、かくの如く、皆さんに愛され、支持されるにふさわしい
外見と雰囲気を備えていたが、

それは飽( あ )く まで平時の事。 責任や決断を迫られる非常時には
育てられ方の欠陥の露呈する事も、また事実である。



ワシは当時、彼と利害関係は無し。 挨拶する程度の関係だったから、
清水君に、君は親譲りの清水商店だけを管理し、

新規の拡大事業は分離して、弟の正明君に委譲して、別会社にしたらどう
か ・ ・ ・ などと、



余計な事、言って仕舞って、悔やんでたものである。 結果が結果だ
から、いっそう、言うでなかっの思い、つのるのだ。



  *       *       *



清水君は、仲間人間だった。 なにしろ、あれ程の大資産家の老舗
( しにせ )の、お坊ちゃまである。

親しい仲間、数名。 たびたび食事会など開いて、自分も楽しみ、仲間達
とも、楽しんで居た。



そんな仲間の一人に聞くと、食事の準備までの間、応接室で待つのだが、
畳二帖( たたみ、にじょう )ほどの油絵が、掛かってたそうである。

値段を聞いても判らない。 だけど、額縁の値段なら、百万を越すそう
だ ・ ・ ・ に、ワシ、流石( さすがぁ 〜 )清水君と、

感嘆してたものだ。



ちなみに、ワシにそれを言うた同級生、糖尿で苦しんどる。 今度会えば
清水君ちのご馳走が原因だと、言ってやろう。

彼の糖尿の原因は、家系的である。 その同級生、お母さんが重度の
糖尿だった。



医者から、女性であそこまで深刻な糖尿は、学会発表ものだと言われた
そんな糖尿である。

つまり彼のは、遺伝的糖尿であって、別に清水君ちのご馳走が原因では
無い。



清水君自身は健康だった。 清水君の肺ガン死は、心労と過度の飲酒を原
因とする、自己破壊疾患である。



  *       *       *



学校の実習でも、清水君の仲間は特別だった。 ああ言う場面を見てる
と、哀悼の意が、失せて仕舞う。

清水君とこ、商売だから、プロの大工道具のお古、幾らでも有る。
カンナやノコや材料など。  清水君は仲間にだけ、仲間にだけ与えた。



先生が、明日は板を持って来いと言う。 ワシの持参した板なんざ、リン
ゴ箱の外板だあな。 普通の家に、調子の良い板など無いよ。

まさか、買うほどの余裕も無い時代。 みっともない板で、お茶を濁して
た。 周りも似た様な調子だったから、救われた。



そんな中で清水君の仲間、商売人の使う正目の板を持って来る。 ワシ
内心、糞( くそ )ったれと、思わなかったわけでも無いのだ。

ま、清水君。 我ら普通の人間の、何倍もの愉楽を、楽しんだのだ。
破産を回避するチャンスも有ったのだ。



二十代で早くも小松市の著名人と成り、行く所すべてが、一等席だった。
皆で彼を、上席に座らせた。

周りの人のすべてが、彼を小松市の名士として扱ったのだ。 清水君が
人生に文句言う余地、少ないと思う。



最後、破産してさえ、ワシの目からは幸運児と見えた。 結構な人生では
無かったか?  と言える。

ご両親が健在なのは、遺伝子的に、結構だ。 本来は健康な一族である。
清水家、三代目の道明君。

色んな意味で、結構な人生をしたもんだ、と言える。 その喜びと悲しみ
を総和すれば、ワシにはまだ、幸運が優( まさ )って見える。



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さて、中学時代からの同級生は、ここで終わる。 次段より小松高校での
同級生を扱う。

最初に登場は、明星大学電気科教授、山口俊久君だ。 何で彼が最初か?
と言うのは、だな。



同級生では彼が一番に、教授様に成ったからさッ


アハハッ なんて、笑っちゃいけない教授様。 笑わにゃいけない
教授の( 下手糞な )駄洒落、言うてナ。

次段にて、その問題の、山口俊久教授様様を、書くッ









*       *       *



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