*  自分史 製造業系 ( 五十歳までのワシ。 鉄工所三十二年間の想ひ出 )  *   < kujila-books ホームへ帰る >

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第 2 章  *  和田伝四郎翁小伝 2

番外 の 2/3 


< 和田伝四郎初代小松市長小伝 2 >





現在の小松市の市長は、初代から数えて八人目である。
いずれ劣らぬ才能の方々なれど、和田伝四郎初代市長ほど
小松市民の心に残った方も無いだろう。

ワシ、翁の伝記を改めて読み、なる程と納得した。
吉田茂、岸信介、佐藤栄作、田中角栄、福田赳夫、宮沢喜一。
日本を代表する大政治家ではあるが、実戦経験は無い。
和田伝四郎翁、日露戦役、旅順要塞攻防戦、肉弾突撃を経験しとる。

弾の下を潜( くぐ )らにゃ駄目とは言わんが、そんな体験の方、
やっぱ違うだろうなぁ 〜 と思ってしまう。
正直、ワシも弾の下は潜っとらん。人生の修羅場は潜っても
砲弾、機関銃弾の飛んで来る実戦経験は、からきし無い。

多感な二十代に、あの日露戦争を実体験した和田伝四郎翁。
我ら小松市民の心に、今も強く残るのも、
故( ゆえ )無しとは、せんのである。( しないのであある。)

小松市の今日の発展、和田伝四郎市長の布石である事、
誰が否定出来るか?
いかなる反対者も認めざるを得ない。よって我ら小松市民、
銅像に向かい奉りて、合掌感謝を捧ぐ。



*     *     *





< 本 * 和田伝四郎翁 その人と生涯 >


昭和四十七年 伝記刊行会編、北国出版社刊の、この本を参考に書くのだが、
冒頭、書きたくない事を書かねばならぬ。

この本、無邪気では無いのである。 刊行に際した名誉会長に、時の小松
市長佐竹弘造氏が、序文を寄せておる。



小松市以外の方は判り難いと思うが、佐竹弘造市長は市長に成る前に、石川
一区の衆議院選挙に出馬して落選した。

ウエブで氏を検索すると、前職は佐藤栄作元総理の秘書とある。 ワシの記
憶では確か、田中角栄元総理の秘書の筈。



この部分を書けとワシに要請した仁も、同じ記憶である。 場合に依っては
後に修正の可能性を残す。

田中角栄と言えば福田赳夫の政敵である。 その秘書が何で衆議院石川一区
から立候補なのか? ・・・ と言うのは、だな、


ここが地盤で福田派の森善朗の選挙妨害なんだそうだ。 これは後援会立ち
上げの席に、佐竹弘造氏、自らが言った言葉である。

当選しなくて良い。 森を苦しめる為に立候補する ・・・ んだとさ。
言わない方が良かったセリフとも思えるが ・・・



  *       *       *



これの前だ、我らが和田伝四郎市長、五選目の対戦相手が 藤井栄次石川県議
なんだが、この藤井氏、和田伝四郎市長が育てた人物なのである。

弟子との対戦は、二千八百票差で和田伝四郎翁、苦杯を舐めた。 ワシが中学生
の頃でな。 家が土居原町だろ。 和田家は町内じゃがな。



だもんで町内の婦人会、熱狂的和田派。 ワシの母も勿論、和田伝四郎の応
援に飛び出して行って、すごいものだった。 小松が二分したと言われた。

それで和田が負けたから、いやはや、大変だった。 かくして当選の藤井新
市長だったが、わずか一期で終ってしまった。 何故か?



和田伝四郎元市長に支援された 佐竹弘造氏が、二期目を狙う藤井市長を破り
小松市の新市長に当選したからだ。

佐竹弘造新市長は、反森善朗派である。 これがしこりに成り、この時から
小松市は森派と佐竹派が、対立する図式に成ったのだ ・・・ とさ。



だから本 < 和田伝四郎翁その人と生涯 > を、じっくり分析すると、確か
に森派の連中、隅に押しやられておる。

この本に賛同すると、自動的に佐竹派に成って仕舞う仕掛けが透けて見える。
と、ある方がワシに言うのだが、真偽の程は各自、判断を願う。



では和田伝四郎翁の、略伝を記す。




< 和田伝四郎翁 小伝 >


( 明治期 )


○ 明治10年 ( 1877 )9月20日、誕生す。


父、伝四郎。 母、すて。 の長男なり。 伝作と命名さる。
伝四郎と改名するは、大正15年、父の死去後、48歳の時なり。

生誕地、能美郡小松町は現在の小松市土居原町なり。 その163番地。

ちなみにワシ、同じ土居原町の188番地だから、すぐ近所だ。 道理で
ワシの祖父伊義 ( いよし ) 、和田伝四郎市長の秘書みたい事、してた


筈だ。 子供時代の遊び仲間だったのである。 ワシの母 ( 92歳時 )
にこの辺を聞くと、伝四郎翁の息子さんの学次さんの嫁さんが、

近所なんで良く来たそうだ。 気さくな方でした ・・・ とさ。



○ 明治28年 ( 1877 )石川県立尋常中学校
     ( 在金沢 ) 卒業す。 18歳なり。



○ 明治30年 ( 1897 )12月1日、陸軍に入隊す。


20歳、甲種合格、現役兵で輜重隊 ( しちょうたい ) 第九大隊なり。

明治33年七月、陸軍輜重兵伍長に任ぜられ、同年11月、満期除隊す。



○ 明治37年 ( 1904 )5月、戦時臨時召集動員下令。


日露戦役なり。 輜重兵として第九大隊に入隊す。 26歳なり。
同年10月には早くも、旅順口要塞戦に参加す。


翌38年2月、奉天戦に参加す。 9月、陸軍輜重兵曹長に任ぜらる。



翌39年1月、凱旋し、金沢原隊に帰着す。 2月、召集解除。
4月、日露戦役の叙勲有りて勲七等旭日青色桐葉章、功七級金鵄勲章、

並びに従軍記章を授与さる。 和田伝四郎翁、28歳のみぎりなり。
除隊後は、水田の耕作などに従事す。



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○ 翁の日露戦役従軍談、目茶(めちゃ)、面白し。  目茶の字、戦没
された勇士の皆さんから、お叱りを受けるやも知れぬが、

司馬遼太郎も認める、日本が一番光り輝いた時代の事件である。 次段にて
特記する。 出来れば皆さんも参考の為に、次の一冊を、是非お読み下さい。



(必読レベル) 石光真人編 <石光真清の手記> 中央公論社刊



この石光真人氏も、日露戦に従軍し、その体験記を残した。
少年期、熊本で、西南戦争を目撃し、長じては自発的にシベリヤへ渡り、

南下する大ロシアの勢力を実体験し、日露戦の実体験の終始を、手記の形
で残されたのです。



この手記、一心太助で有名な、大久保彦左衛門の手記、< 三河物語 >
と同様、刊行する積り、まったく無しに書かれた手記。

本音が、そのまま放出された体験記です。 日露戦における、我が日本軍
兵士の心情が、そのまま記されております。 是非是非、読んで下さい。




( 追記 )

石光真清氏の兄の石光真澄氏は、恵比寿麦酒支配人。 弟の石光真臣氏は
陸軍中将で憲兵司令官でした。

妹の真津子氏は橋本家に嫁ぎ、その子が、総理大臣に成った橋本龍太郎氏で
弟の橋本大二郎氏は、高知県知事でした。


実子の石光真人氏は、新聞功労者。 父真清氏の遺稿を整理しました。
なかなかの優れ者一族だったことが判ります。



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和田伝四郎翁、輜重隊なのに、見かねて大砲打ったり、部下と一緒に
突撃したり、

昭和の戦争時には、決して見れぬ、八方破れの大活躍をして居られます。
そしてこの日露戦、一応、日本が勝ちましたが、長い目で見ますと、



あの時、勝ったばかりに、その後、負けて仕舞った。 とも言えます。

だいたい勝った勝ったと言いますが、あそこでアメリカが仲介して呉れ
なければ、明石元二郎がレーニンを、よいしょして、革命が無ければ。



開戦時の資金を、アメリカの金融資本家が出して呉れなければ、
アルゼンチンが、イタリアで新建造の戦艦二隻を譲って呉れなければ、

明治維新の実戦でセレクトされた、きわめて優秀な指揮官に恵まれて
いなければ。 兵士の一人一人が、かくも勇敢に突撃しなければ、



とても勝てた相手では無かったのです。 伊藤博文なんかも、ロシアと
まともに戦ったら、日本は負けると、断言した位のいくさ、だったのです。

日露戦の戦場には、和田伝四郎翁みたい、ハチャメチャの兵士が、
五万と居たのです。 ハチャメチャを許容する、柔軟さも有りました。



だからこそ、日本は勝てたのです。 そこを忘れたのが、失敗の元(もと)
でした。



勝ったと思った瞬間が、負けの始まり。


と、ワシの学んだ鑑定学の本には書いて有ります。 心したい言葉です。




○ 明治41年 ( 1908 )8月、毛利すみ と結婚届出。


伝四郎翁、30歳なり。 届を出したのは8月22日なるに、翌月7日には
早くも長男 朔郎 ( いちろう と読む筈 ) 誕生す。

出来ちゃった婚か? 伝四郎翁も、スミ ( 隅 ) には置けぬわい。
残念な事に、この子、十代の初めに夭逝した。



43年には、二男学次誕生。 大正2年には、三男、他圭作。 11年には
四男、四良作が生まれた。

この間、女の子も二人生まれたが、いずれも早逝した。 昔は子供の死が
多かった。 日本の、ほとんどの家に、子供の死の物語が秘められていた。




( 大正期 )


○ 大正13年 ( 1877 )8月、母すて、死亡。


大正15年2月には、父、伝四郎も死亡す。 よって4月、伝作を改め
父の名、伝四郎を襲名す。 翁、この時、48歳なり。

同年7月、小松ガス取締役を拝命す。



( 昭和期 )


○ 昭和4年 ( 1929 )4月、小松町会議員に当選す。


翌5年、小松ガス会社社長と成る。 52歳なり。

昭和7年7月、小松大火、千九十七戸焼失す。 和田伝四郎宅、焼失す。
ワシの家もこの時、灰塵 ( かいじん、はいじん )と帰した。



昭和15年、小松市政誕生す。 山口又八市長なり。 和田伝四郎翁、
市議と成る。

翌16年、小松市議会議長を拝命す。 翁、63歳なり。
19年、小松市連合農業会長たり。




○ 昭和22年 ( 1947 )4月、初代公選
       小松市長に当選す。69歳時なり。



同年10月、昭和天皇陛下、小松巡幸あり。 和田市長、市民を代表し、
ブドウ一籠、丸いも一箱、献上す。



23年、病を得る。 快癒記念に名物となる八字ヒゲを、生 ( は )
やし始む。

昭和26年、市長二選。 30年、三選。 34年は、四選目なり。



この間、大小松建設促進委員会を設置し、インフラ等の充実に尽力す。

安宅港の改修をした。 小松市総合運動場を建設した。 周辺の村々を
小松市に編入し、市政を拡充した。



市長職を拝命する以前より関与せし、小松市の農業振興事業の功労に対し、
昭和31年、藍綬褒章を授与さる。 この時、翁、78歳なり。

32年、市内医師会の猛反対を廃して、小松市立総合病院を立ち上げた。
この年、米軍の ( 進駐軍の ) 小松飛行場基地が閉鎖された。



翌33年、市長、航空自衛隊のジェット基地にする提案を成す。 曲折を
経て35年、起工式。 民間機と共用の飛行場を造った。



○ この件に関した話題多し。よって次段にて特記す。



同35年、小松市立女子高等学校を開校す。 防音工事第一号となる、日末小
学校も完成す。



昭和36年、市内に在って交通渋滞の因であった卸売り市場を、郊外へ
移す。

ごみ焼却場を起工す。 総合体育館を市の総合運動場に隣接して着工す。



○ 昭和38年 ( 1963 )5月、市長職を退す。


五選を目指した市長選で、対立候補、藤井栄次氏に破れ、落選した。
この時、翁、85歳なり。

翌39年、第一回の生存者叙勲、並びに、自治功労により勲四等瑞宝章を受く。
翌40年には、小松市政二十五周年式典にて、藤井市長より金杯を受く。



○ 昭和42年 紺綬褒章を受く。89歳なり。


○ 昭和54年(1970)5月 名誉市民第一号と成る。


和田伝四郎翁、92歳なり。 同じ年の9月、自身が市長時代に建てし
小松市立総合病院へ入院す。

翌10月20日、永眠す。満93歳なり。 26日、同じく自身が建てし
小松市立総合体育館にて、市葬が執り行なわれた。



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以上が和田伝四郎翁の、略年譜である。 この内、日露戦役従軍と
アメリカ進駐軍撤退後の小松飛行場へ、自衛隊基地を誘致する部分は

我らの人生の参考にも成れば、面白くもある。 よって次段にて
この部分のみを、特記す。







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